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第2話 雨の夜の迷子②

Auteur: 花柳響
last update Date de publication: 2026-03-11 01:28:05

「痛っ……!?」

 ミシミシと、骨が軋む鈍い音が耳の奥に響く。血流が一瞬で止められ、指先から血の気が引いていくのがわかった。

(だめ、指が……っ、痛い……!)

 恐怖で奥歯がカチカチと鳴る。

 男の黄金色の瞳が、ゆっくりと細められる。

 その視線は、助けてもらった恩人の顔を見るものではなかった。こちらの値踏みをするような冷たさと、ドロドロとした暗い怒りが、縦に割れた瞳孔の奥でチロチロと燃え上がっていた。

「……有栖川の、淀んだ血の匂いがするな」

 地鳴りのように低く、そしてひどく掠れた声だった。

 男の太い指が、手首をさらにギリギリと締め上げる。手首の骨が悲鳴を上げ、思わず顔が苦痛に歪んだ。

「お前たち一族が、俺をあの薄汚い場所に縛り付けた。人間の発する忌まわしい淀んだ空気の中で、肺が焼け焦げる痛みを味わわせてくれたな」

 言葉の意味がまったく理解できない。有栖川家がこの男を縛り付けた?

「あの、何の話ですか……私はただ、あなたが苦しそうだったから……っ、痛い、離して……」

「黙れ」

 短い一言が、氷のように冷たく空気を切り裂いた。

 ぐいっと、手首を強烈な力で手前へと引っ張られた。

「きゃあっ……!」

 水溜まりの上で足が滑り、完全にバランスを崩す。そのまま、男の分厚い胸板へと真正面から激突した。

 硬い。まるで分厚い岩盤に勢いよくぶつかったかのようだった。鼻先が潰れるほどの衝撃。痛みに顔をしかめる間もなく、男の丸太のように太い腕が、背中と腰にきつく巻き付いてきた。

「あ……ちょっ、何するんですか! 離して……っ」

 両手を男の胸に突き立て、必死に押し返そうと体重をかける。しかし、巨体はピクリとも揺るがない。

 雨をたっぷり吸い込んだ高級なウール生地のザラつき。そこから放たれる火傷しそうなほどの高体温が、ずぶ濡れになって冷え切った衣服を通り越して、皮膚の奥深くまでジリジリと焦がすように伝わってくる。

 男の美しい顔がガクンと下がり、首筋の真横に深々と鼻先が押し付けられた。

 スゥーッ、と。

 肌の表面から立ち上る匂いを、最後の一滴まで貪るように深く吸い込む生々しい音が響く。

「……だが、皮肉なものだ」

 首筋に当たる熱い吐息とともに、男の喉の奥で低い笑い声が鳴った。

「俺を封じ込めた忌まわしい血族の女から、これほど純度の高い空気が湧き出しているとは」

 男は大きく、本当に深く、周囲の空気を肺の奥底まで吸い込んだ。

 そのたびに、異常に発達した大胸筋が膨張し、こちらの体をさらに強く圧迫してくる。

「なっ、何言ってるの……やめて、離してっ!」

 無防備な首筋に直接当たる熱い吐息。全身の産毛が一斉に逆立ち、パニックになって腕の中でもがいた。

 肩を激しくよじり、泥だらけの靴のまま、男のスラックスの脛のあたりを無我夢中で蹴りつける。

 だが、その抵抗が逆に、目の前の男の本能のスイッチを入れてしまったのかもしれない。

 男の大きな手のひらが背中から離れ、後頭部を無造作に鷲掴みにした。

 雨に濡れて束になった髪の毛の根元に、太く硬い指が乱暴に入り込み、強引に上を向かされる。首の骨が鳴りそうなほどの力だ。

 視界いっぱいに、怒りと、それ以上の圧倒的な渇望を混じらせた黄金の瞳が迫った。

「え……っ」

 抗議の声を上げる暇すらなかった。

 次の瞬間、叩きつける雨の冷たさとは完全な対極にある、焼け付くような熱い唇が、開いたままの口を完全に塞いでいた。

「んっ……!? む、ぐ……っ」

 苦しげな吐息とともに、熱い塊が口内へと入り込んでくる。

 逃げようと後ずさる背中が、冷たいレンガ塀にドンッと乱暴に押し付けられる。ゴツゴツとしたレンガの角が背骨に食い込む痛みが走るが、それ以上に、正面から押し寄せる巨体の重圧が、呼吸の自由を完全に奪い去っていく。

「ぷはっ……だめ、んっ、やぁ……っ」

 唇が僅かに離れた一瞬の隙を突き、首を振って顔を背けようとする。

 しかし、後頭部を掴み込む巨大な手のひらはそれを決して許さない。再び強引に正面を向かされ、今度はさらに深く、唇の輪郭ごと押し潰すような力で重ねられた。

「ぁ……んっ、んあ……っ」

 固く閉ざそうとした唇を、甘噛みするように強引にこじ開けてくる。

 滑らかで、ヤケドしそうなほど温度の高い舌先が、口腔の奥深くへと容赦なく侵入してきた。雨音のすぐ下で、ひどく熱を持った水音が、粘膜を擦り合わせる生々しい音と共に響く。

 息ができない。

 鼻で呼吸をしようにも、眼前に迫る巨体から放たれる熱気と、雨に濡れた獣のようなウールの匂いが肺の隅々まで満たし、余計に頭がクラクラと酸欠状態に陥っていく。

(苦しい……っ、息が……)

 両手が、男の濡れたスーツの胸ぐらを必死に掴む。厚い筋肉の壁はピクリとも揺るがない。逆に、もがけばもがくほど、腰に回された腕の拘束が強まり、二人の間にあった僅かな隙間すらも完全に潰されていく。

 男の舌が、逃げ場を失った舌に深く絡みついてくる。

 捕まえ、吸い上げ、執拗に擦り合わせる。単なる暴力ではない。まるで私の中から生気そのものを吸い尽くし、自分の血肉に変えようとしているかのような、恐ろしいほどの貪欲さだけが伝わってくる。

 目からポロポロと生理的な涙がこぼれ落ち、頬を叩く雨水と混ざって顎を伝い落ちていった。

 スーツの胸ぐらを握りしめていた拳の力がふっと抜け、だらりと垂れ下がる。膝の力が完全に抜け落ち、冷たいレンガ塀と男の巨体との間に挟まれたまま、ずるずると泥水の中へ崩れ落ちそうになった。

 突然、唇を塞いでいた圧倒的な圧がふっと緩んだ。

「はぁっ……はぁっ、げほっ……!」

 酸欠の金魚のように大きく口を開け、冷たい雨の混じった空気を肺の奥底へと貪り食うように吸い込む。大きくむせ返り、無理やりこじ開けられていた喉の奥がヒリヒリと痛んだ。

 男の手が後頭部から離れる。

 腰に回されていた腕の力も緩み、支えを失った体がレンガ塀に沿ってずるずると崩れ落ち、泥水の中に膝をついた。

 男はゆっくりと立ち上がった。

 身長百九十センチを超える漆黒の巨体が、冷たい雨を弾きながら、泥水に這いつくばるこちらを見下ろしている。

「有栖川の女。せいぜい長生きしろ。俺の肺を満たすためにな」

 磨き上げられた革靴が、泥水を跳ね上げて向きを変える。

 反論する気力も、逃げ出す力も残っていなかった。

 口の中には、まだあのヤケドしそうなほどの熱と、獣のようなウールの匂いがこびりついている。

 雨音だけが響く暗がりの中で、地面に落ちて泥まみれになったバインダーを、震える指先でただじっと見つめていた。

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