تسجيل الدخول「痛っ……!?」
ミシミシと、骨が軋む鈍い音が耳の奥に響く。血流が一瞬で止められ、指先から血の気が引いていくのがわかった。 (だめ、指が……っ、痛い……!) 恐怖で奥歯がカチカチと鳴る。 男の黄金色の瞳が、ゆっくりと細められる。 視線は、助けた相手を見る目ではなかった。こちらの値踏みをするような冷たさと、ドロドロとした暗い怒りが、縦に割れた瞳孔の奥でチロチロと燃え上がっていた。 「……有栖川の、淀んだ血の匂いがするな」 地鳴りのように低く、そしてひどく掠れた声だった。 男の長い指が、手首をさらにギリギリと締め上げる。手首の骨が悲鳴を上げ、思わず顔が苦痛に歪んだ。 「お前たち一族が、俺をあの薄汚い場所に縛り付けた。……お前たちの血に染み付いた、あの忌々しい『浄化の残り香』のせいでな」 言葉の意味がまったく理解できない。有栖川家がこの男を縛り付けた? 浄化の残り香? 「ようやく下界の準備を整え、目覚めたというのに……この街の猛毒に焼かれ、俺は這いつくばって、この淀んだ屋敷の敷地に逃げ帰るしかなかった。この数ヶ月、人間の発する忌まわしい空気の中で、肺が焼け焦げる痛みを味わわせてくれたな」 「あの、何の話ですか……私はただ、あなたが苦しそうだったから……っ、痛い、離して……」 「黙れ」 短い一言が、氷のように冷たく空気を切り裂いた。 ぐいっと、手首を強烈な力で手前へと引っ張られた。 「きゃあっ……!」 水溜まりの上で足が滑り、バランスを崩す。そのまま、男の広い胸元へと真正面から激突した。 硬い。まるで分厚い岩盤に勢いよくぶつかったかのようだった。鼻先が潰れるほどの衝撃。痛みに顔をしかめる間もなく、男の逃げ場のない腕が、背中と腰にきつく巻き付いてきた。 「あ……ちょっ、何するんですか! 離して……っ」 両手を男の胸に突き立て、必死に押し返そうと体重をかける。しかし、巨体はピクリとも揺るがない。 雨をたっぷり吸い込んだ高級なウール生地のザラつき。そこから放たれる焼けつくほどの体温が、ずぶ濡れになって冷え切った衣服を通り越して、皮膚の奥深くまでじわじわと伝わってくる。 男の顔が乱暴に近づき、首筋のすぐ横へ鼻先が押しつけられた。 スゥーッ、と。 肌の表面から立ち上る匂いを、最後の一滴まで貪るように深く吸い込む生々しい音が響く。 「……だが、皮肉なものだ」 首筋に当たる熱い吐息とともに、男の喉元で低い笑い声が鳴った。 「俺を封じ込めた忌まわしい血族の女から、これほど純度の高い空気が湧き出しているとは」 男は大きく、本当に深く、周囲の空気を肺の奥底まで吸い込んだ。 たびに、胸が深く膨らみ、こちらの体をさらに強く圧迫してくる。 「なっ、何言ってるの……やめて、離してっ!」 無防備な首筋に直接当たる熱い吐息。全身の産毛が一斉に逆立ち、パニックになって腕の中でもがいた。 肩を激しくよじり、泥だらけの靴のまま、男のスラックスの脛のあたりを無我夢中で蹴りつける。 だが、その抵抗が逆に、目の前の男の本能のスイッチを入れてしまったのかもしれない。 男の大きな手のひらが背中から離れ、後頭部を無造作に鷲掴みにした。 雨に濡れて束になった髪の毛の根元に、太く硬い指が乱暴に入り込み、強引に上を向かされる。首の骨が鳴りそうなほどの力だ。 視界いっぱいに、怒りと、それ以上の抑えきれない渇きを混じらせた黄金の瞳が迫った。 「え……っ」 抗議の声を上げる暇すらなかった。 次の瞬間、叩きつける雨の冷たさとは完全な対極にある、焼け付くような熱い唇が、開いたままの口を完全に塞いでいた。 「んっ……!? む、ぐ……っ」 苦しげな吐息とともに、熱い塊が口内へと入り込んでくる。 逃げようと後ずさる背中が、冷たいレンガ塀にドンッと乱暴に押し付けられる。ゴツゴツとしたレンガの角が背骨に食い込む痛みが走るが、それ以上に、正面から押し寄せる巨体の重圧が、呼吸の自由を奪っていく。 「ぷはっ……だめ、んっ、やぁ……っ」 唇が僅かに離れた一瞬の隙を突き、首を振って顔を背けようとする。 しかし、後頭部を掴み込む大きな手のひらはそれを決して許さない。再び強引に正面を向かされ、今度はさらに深く、唇の輪郭ごと押し潰すような力で重ねられた。 「ぁ……んっ、んあ……っ」 固く閉ざそうとした唇を、甘噛みするように強引にこじ開けてくる。 滑らかで、焼けつくほど温度の高い舌先が、口腔の奥深くへと容赦なく侵入してきた。雨音のすぐ下で、ひどく熱を持った水音が、粘膜を擦り合わせる生々しい音と共に響く。 息ができない。 鼻で呼吸をしようにも、眼前に迫る巨体から放たれる熱気と、雨に濡れたウールの匂いが肺の隅々まで満たし、余計に頭がクラクラと酸欠状態に陥っていく。 (苦しい……っ、息が……) 両手が、男の濡れたスーツの胸ぐらを必死に掴む。厚い筋肉の壁はピクリとも揺るがない。逆に、もがけばもがくほど、腰に回された腕の拘束が強まり、二人の間にあった僅かな隙間すら潰されていく。 男の舌が、逃げ場を失った舌に深く絡みついてくる。 捕まえ、吸い上げ、執拗に擦り合わせる。単なる暴力ではない。まるで私の中から生気そのものを吸い尽くし、自分の血肉に変えようとしているかのような、恐ろしいほどの貪欲さだけが伝わってくる。 目からポロポロと生理的な涙がこぼれ落ち、頬を叩く雨水と混ざって顎を伝い落ちていった。 スーツの胸ぐらを握りしめていた拳の力がふっと抜け、だらりと垂れ下がる。膝の力が完全に抜け落ち、冷たいレンガ塀と男の巨体との間に挟まれたまま、ずるずると泥水の中へ崩れ落ちそうになった。 突然、唇を塞いでいた重い圧がふっと緩んだ。 「はぁっ……はぁっ、げほっ……!」 酸欠の金魚のように大きく口を開け、冷たい雨の混じった空気を肺の奥底へと貪り食うように吸い込む。大きくむせ返り、無理やりこじ開けられていた喉がヒリヒリと痛んだ。 男の手が後頭部から離れる。 腰に回されていた腕の力も緩み、支えを失った体がレンガ塀に沿ってずるずると崩れ落ち、泥水の中に膝をついた。 男はゆっくりと立ち上がった。 身長百九十センチを超える漆黒の巨体が、冷たい雨を弾きながら、泥水に這いつくばるこちらを見下ろしている。 「有栖川の女。せいぜい長生きしろ。俺の肺を満たすためにな」 磨き上げられた革靴が、泥水を跳ね上げて向きを変える。 反論する気力も、逃げ出す力も残っていなかった。 口の中には、まだあの熱と、濡れたウールの匂いがこびりついている。 雨音だけが響く暗がりの中で、地面に落ちて泥まみれになったバインダーを、震える指先でただじっと見つめていた。車が緩やかな坂道を登り始める。沿道に植えられた高い樫の木。見覚えのあるレンガ造りの塀。 胃の底がギューッと握り潰されるような感覚に陥り、思わず黎の手を強く握り返した。 黎は何も言わず、ただ握り返された手ごと、自分のウールコートのポケットの中に突っ込んだ。 分厚い生地に覆われたポケットの中は、驚くほど温かい。黎の腿の熱と、布の摩擦が、冷え切った指先を溶かしていく。「……ありがとうございます」「別に。俺の手が冷えるのが嫌なだけだ」 子供のような強がりを言う横顔を見つめ、ポケットの中の大きな手にぎゅっとしがみつく。 やがて、タイヤが微かに砂利を噛む音を立てて、車がゆっくりと停止した。 運転手が外からドアを開ける。 流れ込んできたのは、冬の冷たい風と、枯れ葉が擦れる乾いた音。 そして、古い石材と湿った土が混じったような、あの屋敷特有の匂い。 ポケットから手を引き抜き、車の外へ足を踏み出す。 革靴がアスファルトを叩く音。 見上げると、そこには黒々とそびえ立つ重厚な鉄の門扉があった。 尖った装飾が施された高い門。その奥に広がる、無駄に広い前庭と、権威を誇示するような洋館。 かつては、この門の前に立つだけで、巨大な怪物に呑み込まれるような息苦しさを感じていた。ここは鳥籠の入り口であり、終わりのない苦痛の始まりの場所だったから。 ゴクリ、と乾いた喉を鳴らす。 背後に回った黎が、無言のまま隣に並び立った。 肩が触れ合うほどの距離。分厚いコート越しでも伝わってくる、圧倒的な熱量。 黎が見上げる視線の先で、屋敷の窓がいくつか暗く沈んでいるのが見えた。「……ただの、古い家ですね」 ぽつりとこぼれ落ちた自分の声は、驚くほど平坦だった。 震えていない。「ああ。壁にはヒビが入っているし、鉄格子は錆びだらけだ。俺が蹴破れば三秒で倒壊するだろうな」 黎が鼻で笑いながら、門扉の鍵穴の辺りに長い指を向ける。「開けてやろうか。指一本で溶接ごと吹き飛
黎の眉間にもう一段深く皺が寄る。まるで、とてつもなく苦い薬を無理やり飲まされているような顔だった。 長い沈黙の後、黎は頬から手を離し、乱暴に自分の銀髪を掻き乱した。「……三歩だ」「え?」「俺から三歩以上、絶対に離れるな。もしそれ以上離れたら、その瞬間に首根っこを掴んで窓から飛んで帰る」 その物騒な条件に、思わず唇の端が緩む。「三歩じゃ、廊下を歩く時にぶつかってしまいますよ」「文句を言うなら一歩にするぞ。背中に張り付いて歩け」「三歩でお願いします」 ふん、と鼻を鳴らした黎が、腕に掛かっていたコートをひったくるように取り上げる。そして、乱暴な手つきで肩にバサリと掛けた。「ほら、さっさと袖を通せ。気が変わらないうちに行くぞ」 ぶっきらぼうな声の裏にある、不器用すぎる譲歩。 腕を通しながら、胸の奥に灯った小さな温かさが、先ほどまでの冷たい恐怖を少しだけ溶かしていくのを感じた。 ◇ 地下駐車場から地上へ出ると、空はどんよりとした灰色の雲に覆われていた。 大型の黒いセダン。本革張りの後部座席に深く沈み込むと、新車の匂いと、隣に座る黎の熱気が鼻腔を満たす。 運転席との間には厚い防音ガラスのパーティションが引かれ、完全な密室になっていた。 タイヤがアスファルトを掴み、滑らかに車が発進する。 窓の外を流れる東京の街並み。見慣れた華やかな景色が、次第に閑静な高級住宅街へと変わっていく。有栖川邸がある山の手のエリアに近づくにつれ、沿道の並木道や石垣が、嫌な記憶を鮮明に呼び起こし始めた。 膝の上で、両手を固く握り合わせる。 指先から血の気が引き、冷たくなっていくのが自分でもわかった。喉がカラカラに乾き、唾を飲み込むことすら難しい。 浅くなる呼吸。 無意識のうちに、前かがみになりそうになったその時。 隣から伸びてきた大きな手が、膝の上で握りしめていた両手を乱暴にほどき、そのままガッチリと包み込んだ。「……冷たい」 不機嫌な声が
黎の鋭い感覚が、その微細な身体の変調を見逃すはずがない。 「そんな状態で、あの毒の溜まり場のような場所へ戻る意味がどこにある。また熱が上がって、倒れるつもりか」 責めるような口調の奥に、隠しきれない焦燥感が滲んでいる。 黎の大きな親指が、手首の脈を確かめるようにそっと撫でた。脈拍が速くなっているのを、指先を通して読み取っているのだ。 黎が恐れているのは、有栖川家の人間ではない。あの屋敷に残る過去の残滓が、再び身体を削り、呼吸を奪うこと。ただそれだけを、極端なまでに恐れている。 手首を包み込む黎の手の上に、自分の手を重ねた。 黎の熱い皮膚に比べると、氷みたいに冷たい自分の指。それでも、しっかりと力を込めてその指を握り返す。 「怖いですよ。今でも、あの屋敷の匂いを思い出すだけで息が詰まりそうになります」 「だったら……っ」 「でも、これは私が自分で取り戻さなくちゃいけないものなんです」 遮るように言葉を重ねる。 黎の言葉を待たず、重ねた手にさらに力を込めた。 母を死に追いやり、その命を吸い上げて繁栄を築き上げてきた有栖川家。地下に眠る奈落の冷たさ。 祖母が遺してくれた、本当の力のかけら。 誰かに代わりに取りに行ってもらうわけにはいかない。それは、過去に蓋をして逃げ続けることと同じだから。 「今までは、連れ戻されることしかありませんでした。お父様や理恩様に腕を引かれて、無理やりあの暗い廊下に引きずり戻されて……。でも、今日は違います」 黎の黄金色の瞳を、まっすぐに見つめ返す。 黎の瞳の奥で、小さな炎が揺れるのが見えた。 「私は今日、連れ戻されるのではなく、自分の足で向かうんです。奪われたものを取り戻すために。だから、黎様が全部壊してしまったら、意味がないんです」 静かな室内。 エアコンの微かな送風音だけが、耳の奥で鳴っている。 重なった手から伝わる黎の脈動が、ドクン、ドクンと大きく波打っていた。黎の喉仏が上下に動く。 視線を逸らさずに待ち続けると、やがて黎の唇の間から、深く、絞り出すような息が漏れた。 「……見ているだけで、俺の腹の底が焼け焦げそうになる」 独り言のような低い呟き。 「俺は、お前が少しでも息苦しそうにしているのを見るくらいなら、原因となるものをこの世から一つ残らず消し去り
クローゼットの奥から、厚手のウールコートを引き出す。木製のハンガーが金属のポールと擦れ合い、カチャリと乾いた音を立てた。 指先で滑らかなグレーの生地を撫で、小さく息を吐き出す。手首のボタンを留めようとする指先が、微かに震えていた。 背中には、さっきから痛いほどの視線が突き刺さっている。 振り返らなくてもわかる。リビングの中央に置かれた本革のソファ。そこに深く腰掛けた大きな身体が、不機嫌のオーラを隠そうともせずにこちらを睨みつけているのだ。 「どうしても行くというのか」 低く、地を這うような声が広い室内に響いた。 振り向くと、長い脚を組んだ黎が、眉間に深い皺を刻んでこちらを見据えていた。黄金色の瞳が、剣呑な光を帯びて細められている。 「はい。行きます」 コートを腕に掛けたまま、まっすぐにその視線を受け止める。 ソファの革がギュッと軋む音。黎が苛立たしげに脚を組み替えた。長い指先が、ソファのひじ掛けをトントンと一定のリズムで叩いている。 「俺が行く。お前はここで、温かい紅茶でも飲んで留守番をしていればいい」 「お気持ちは嬉しいですが、ダメです。私が自分で取りに行きます」 言い切るのと同時に、ソファから大きな影が立ち上がった。 音もなくカーペットを踏みしめ、長い脚が三歩で距離を詰めてくる。見上げるほどの長身が目の前に立ちはだかると、窓から差し込む冬の薄日が完全に遮られた。 鼻先をかすめる、黎特有の熱を帯びた空気。洗い立てのリネンのような清潔な香りに、微かに焦げたスパイスのような匂いが混じっている。 「俺の指先一つあれば、あのガラクタみたいな屋敷ごと五分で更地にできる。目当ての物だけを瓦礫の山から拾い上げてくれば済む話だ」 真顔でとんでもないことを言う。 見上げると、本気でそうするつもりの凄絶な表情がそこにあった。 「更地にしたら、お目当てのお祖母様のロケットまで粉々に砕けてしまいますよ」 「俺の力加減を舐めるな。指輪の小さな宝石一つ傷つけずに、周りの壁だけを吹き飛ばすことくらい造作もない」 「そういう問題ではありません。それはただの強盗です。ご近所迷惑にもなります」 「あの悪趣味な箱庭の周囲に、気にするような隣人などいなかったはずだが」 「それでもダメです」 強く首を振ると、黎が大きなため息をついた
喉の奥で、ゴクリと唾を飲み込む音がやけに大きく響いた気がした。 理恩が、あの女を連れ戻す。 そして、この地下の奥深くに、鎖で繋いで閉じ込める。 両親は、あの女を獅子王との交渉のカードとして使うつもりらしい。 だが、私にとっては、そんな難しい会社の都合などどうでもよかった。 重要なのは、あの女がこの屋敷に戻ってくるということ。 そして、誰の目にもつかない地下の奥深くに、無防備な状態で鎖に繋がれるということだ。 壁の陰から、積まれた工具箱と、地下へと続く暗い階段を見つめる。 ムスクの香水が、自分の体温で温められ、むせ返るような匂いを放っていた。 唇の端が、自然と上に吊り上がっていく。(……なんだ。わざわざ探しに行く手間が省けたわ) あの女が地下に縛り付けられたら。 両親や理恩の目を盗んで、こっそりとあの部屋に行けばいい。 そして、たっぷりと時間をかけて、吐かせてやるのだ。 男を虜にする秘密の薬の作り方を。あの巨大な男を手懐けた、卑しい媚薬の隠し場所を。 もし口を割らないなら、あの地下室ならいくら悲鳴を上げても、誰の耳にも届かない。 長いアクリルネイルの先を、自分の赤い唇にそっと当てる。「……待ってるわ、お姉様」 声に出さずに、口の形だけでそう呟いた。 階段の冷たい手すりに触れた指先から、ドロドロとした熱い高揚感が全身へと広がっていく。 私が、本物になる。 理恩の隣に立ち、あのペントハウスの最上階から東京の街を見下ろすのは、この美しい顔を持った私だ。 作業員たちが、ガチャガチャと金属音を立てて地下へと下りていく。 その音は、私にとって、輝かしい未来をこじ開けるための、心地よいファンファーレのように聞こえていた。 階段の陰で息を殺したまま、バッグの内ポケットに忍ばせた小さな銀のアトマイザーを指先で撫でた。昨夜、自分で作ったばかりの「浄化の香油」だ。 香水と、母の化粧棚から盗み出した古い精油と、礼拝堂の聖水を混ぜ合わせ
硝子のトレイの上に並べると、薄い琥珀色、淡い薔薇色、無色透明の液体が、照明を受けて宝石のように揺れる。「あの女が男を惹きつけられるなら、私にだってできるはずよ」 小さなビーカー代わりのグラスに、香水と聖水を数滴ずつ垂らしていく。甘い匂いが一気に部屋を満たし、鼻の奥が痺れるほど濃くなった。 理屈など知らない。浄化も、聖女も、血筋も、本当は何一つ分かっていない。それでも麻里亜は、鏡の中の自分に向かって、うっとりと微笑んだ。「これは、私の浄化の香油。理恩様も、あの黒い男も、これを浴びれば私を選ぶわ」 口に出した瞬間、その嘘は少しだけ本物になった気がした。麻里亜は細い銀色のアトマイザーに液体を移し替え、バッグの奥へそっと忍ばせた。 ◇ 数時間後。 昼下がりの屋敷は、いつもなら使用人たちの足音すら気を遣うほどの静寂に包まれている時間帯だ。 しかし、一階の裏廊下、普段は誰も寄り付かない地下室へと続く扉の前に、いくつかの大きな段ボール箱と、見慣れない金属の工具箱が積み上げられていた。 階段の踊り場からそっと身を乗り出し、一階の様子を窺う。 壁に隠れるようにして見下ろした先には、作業着を着た数人の男たちが、額に汗を浮かべながら、地下へ続く重い樫の木のドアの前に立っていた。 その中心で、宗隆が葉巻を咥えたまま、太い指で何やら指示を出している。「いいか。音を立てるなよ。地下の『奈落』のさらに奥、壁の一枚向こう側だ。あそこの隠し部屋の鉄格子は、長年の湿気で完全に錆びついているはずだ。バーナーで焼き切って、新しい南京錠を取り付けろ」 鉄格子。南京錠。 ただの物置部屋には、到底不釣り合いな物騒な単語が、宗隆の口からポンポンと飛び出してくる。 作業員の一人が、図面のようなものを広げながら尋ねた。「旦那様。奥の部屋には、古い木箱や壺がたくさん積まれていますが、あれはどうしましょうか」「触るな。そのままでいい。ただ、部屋の真ん中に、椅子と、腕を固定できる鎖を一つだけ用意しておけ」 鎖。 呼吸が、ヒュッと浅くなる。 壁に張り付いたまま、







