Se connecter「痛っ……!?」
ミシミシと、骨が軋む鈍い音が耳の奥に響く。血流が一瞬で止められ、指先から血の気が引いていくのがわかった。 (だめ、指が……っ、痛い……!) 恐怖で奥歯がカチカチと鳴る。 男の黄金色の瞳が、ゆっくりと細められる。 その視線は、助けてもらった恩人の顔を見るものではなかった。こちらの値踏みをするような冷たさと、ドロドロとした暗い怒りが、縦に割れた瞳孔の奥でチロチロと燃え上がっていた。 「……有栖川の、淀んだ血の匂いがするな」 地鳴りのように低く、そしてひどく掠れた声だった。 男の太い指が、手首をさらにギリギリと締め上げる。手首の骨が悲鳴を上げ、思わず顔が苦痛に歪んだ。 「お前たち一族が、俺をあの薄汚い場所に縛り付けた。人間の発する忌まわしい淀んだ空気の中で、肺が焼け焦げる痛みを味わわせてくれたな」 言葉の意味がまったく理解できない。有栖川家がこの男を縛り付けた? 「あの、何の話ですか……私はただ、あなたが苦しそうだったから……っ、痛い、離して……」 「黙れ」 短い一言が、氷のように冷たく空気を切り裂いた。 ぐいっと、手首を強烈な力で手前へと引っ張られた。 「きゃあっ……!」 水溜まりの上で足が滑り、完全にバランスを崩す。そのまま、男の分厚い胸板へと真正面から激突した。 硬い。まるで分厚い岩盤に勢いよくぶつかったかのようだった。鼻先が潰れるほどの衝撃。痛みに顔をしかめる間もなく、男の丸太のように太い腕が、背中と腰にきつく巻き付いてきた。 「あ……ちょっ、何するんですか! 離して……っ」 両手を男の胸に突き立て、必死に押し返そうと体重をかける。しかし、巨体はピクリとも揺るがない。 雨をたっぷり吸い込んだ高級なウール生地のザラつき。そこから放たれる火傷しそうなほどの高体温が、ずぶ濡れになって冷え切った衣服を通り越して、皮膚の奥深くまでジリジリと焦がすように伝わってくる。 男の美しい顔がガクンと下がり、首筋の真横に深々と鼻先が押し付けられた。 スゥーッ、と。 肌の表面から立ち上る匂いを、最後の一滴まで貪るように深く吸い込む生々しい音が響く。 「……だが、皮肉なものだ」 首筋に当たる熱い吐息とともに、男の喉の奥で低い笑い声が鳴った。 「俺を封じ込めた忌まわしい血族の女から、これほど純度の高い空気が湧き出しているとは」 男は大きく、本当に深く、周囲の空気を肺の奥底まで吸い込んだ。 そのたびに、異常に発達した大胸筋が膨張し、こちらの体をさらに強く圧迫してくる。 「なっ、何言ってるの……やめて、離してっ!」 無防備な首筋に直接当たる熱い吐息。全身の産毛が一斉に逆立ち、パニックになって腕の中でもがいた。 肩を激しくよじり、泥だらけの靴のまま、男のスラックスの脛のあたりを無我夢中で蹴りつける。 だが、その抵抗が逆に、目の前の男の本能のスイッチを入れてしまったのかもしれない。 男の大きな手のひらが背中から離れ、後頭部を無造作に鷲掴みにした。 雨に濡れて束になった髪の毛の根元に、太く硬い指が乱暴に入り込み、強引に上を向かされる。首の骨が鳴りそうなほどの力だ。 視界いっぱいに、怒りと、それ以上の圧倒的な渇望を混じらせた黄金の瞳が迫った。 「え……っ」 抗議の声を上げる暇すらなかった。 次の瞬間、叩きつける雨の冷たさとは完全な対極にある、焼け付くような熱い唇が、開いたままの口を完全に塞いでいた。 「んっ……!? む、ぐ……っ」 苦しげな吐息とともに、熱い塊が口内へと入り込んでくる。 逃げようと後ずさる背中が、冷たいレンガ塀にドンッと乱暴に押し付けられる。ゴツゴツとしたレンガの角が背骨に食い込む痛みが走るが、それ以上に、正面から押し寄せる巨体の重圧が、呼吸の自由を完全に奪い去っていく。 「ぷはっ……だめ、んっ、やぁ……っ」 唇が僅かに離れた一瞬の隙を突き、首を振って顔を背けようとする。 しかし、後頭部を掴み込む巨大な手のひらはそれを決して許さない。再び強引に正面を向かされ、今度はさらに深く、唇の輪郭ごと押し潰すような力で重ねられた。 「ぁ……んっ、んあ……っ」 固く閉ざそうとした唇を、甘噛みするように強引にこじ開けてくる。 滑らかで、ヤケドしそうなほど温度の高い舌先が、口腔の奥深くへと容赦なく侵入してきた。雨音のすぐ下で、ひどく熱を持った水音が、粘膜を擦り合わせる生々しい音と共に響く。 息ができない。 鼻で呼吸をしようにも、眼前に迫る巨体から放たれる熱気と、雨に濡れた獣のようなウールの匂いが肺の隅々まで満たし、余計に頭がクラクラと酸欠状態に陥っていく。 (苦しい……っ、息が……) 両手が、男の濡れたスーツの胸ぐらを必死に掴む。厚い筋肉の壁はピクリとも揺るがない。逆に、もがけばもがくほど、腰に回された腕の拘束が強まり、二人の間にあった僅かな隙間すらも完全に潰されていく。 男の舌が、逃げ場を失った舌に深く絡みついてくる。 捕まえ、吸い上げ、執拗に擦り合わせる。単なる暴力ではない。まるで私の中から生気そのものを吸い尽くし、自分の血肉に変えようとしているかのような、恐ろしいほどの貪欲さだけが伝わってくる。 目からポロポロと生理的な涙がこぼれ落ち、頬を叩く雨水と混ざって顎を伝い落ちていった。 スーツの胸ぐらを握りしめていた拳の力がふっと抜け、だらりと垂れ下がる。膝の力が完全に抜け落ち、冷たいレンガ塀と男の巨体との間に挟まれたまま、ずるずると泥水の中へ崩れ落ちそうになった。 突然、唇を塞いでいた圧倒的な圧がふっと緩んだ。 「はぁっ……はぁっ、げほっ……!」 酸欠の金魚のように大きく口を開け、冷たい雨の混じった空気を肺の奥底へと貪り食うように吸い込む。大きくむせ返り、無理やりこじ開けられていた喉の奥がヒリヒリと痛んだ。 男の手が後頭部から離れる。 腰に回されていた腕の力も緩み、支えを失った体がレンガ塀に沿ってずるずると崩れ落ち、泥水の中に膝をついた。 男はゆっくりと立ち上がった。 身長百九十センチを超える漆黒の巨体が、冷たい雨を弾きながら、泥水に這いつくばるこちらを見下ろしている。 「有栖川の女。せいぜい長生きしろ。俺の肺を満たすためにな」 磨き上げられた革靴が、泥水を跳ね上げて向きを変える。 反論する気力も、逃げ出す力も残っていなかった。 口の中には、まだあのヤケドしそうなほどの熱と、獣のようなウールの匂いがこびりついている。 雨音だけが響く暗がりの中で、地面に落ちて泥まみれになったバインダーを、震える指先でただじっと見つめていた。向かう先は、誰も寄り付かない本邸の最下層だった。 軋む木製の階段を下り、さらにその奥にある、むき出しのコンクリートの階段へと足を踏み入れる。一段下りるごとに、空気が急激に冷え込んでいくのが肌でわかった。雨の湿気とは違う、何十年も澱んだままの、カビと埃が混ざったような不快な匂いが鼻腔を塞ぐ。 地下二階に相当する深さ。そこの突き当たりに、分厚い木製の扉で仕切られた古い地下室があった。使われなくなった家具やガラクタが放り込まれるだけの、暗く冷たい物置部屋だ。 黒服の男が重い扉を引き開け、背中から突き飛ばした。「ああっ……」 冷たいコンクリートの床に膝を打ち付け、ドレスの裾が埃まみれになる。 振り返ると、階段を下りてきた父が見下ろしていた。「獅子王家との繋がりは、麻里亜に引き継がせる。お前のような何の役にも立たない女は、もう表舞台に出る必要はない」「お父様……嘘です、私、本当にハサミなんて持ってなくて……」「言い訳など聞きたくない。食事は一日一回だ。そこで自分の無能さを噛み締めて反省しろ」 バタンッ! と鼓膜を劈くような音が鳴り響き、分厚い扉が閉ざされた。外側からガチャリと重い鍵が回される。 磨き上げられた革靴が向きを変え、コンクリートの階段を上っていく規則正しい足音が、徐々に小さくなっていく。 完全な静寂が落ちた。 窓一つない地下室には、外の光は一切差し込まない。コンクリートの壁からは冷気が染み出し、床の底冷えがドレス越しの肌の熱を急速に奪っていく。 両膝を抱え込み、埃っぽい床に座り込んだ。 父は「食事は一日一回」と言い捨てたが、その最低限の約束すら守られることはなかった。 閉じ込められてから何日が経ったのか。時間の感覚がすっかり麻痺してしまっていた。 一日目か、二日目のことだったか。扉の下の僅かな隙間から、プラスチックの皿が滑り込んできた。しかし、その上に乗せられていたのは、カチカチに乾燥したパンの切れ端と、ひっくり返されて空になった紙コップだけだった。 胃袋はとっくに空っぽになり、痙攣するような痛みを通り越して、今はただ鈍い鉛を飲み込んだような重さだけがある。喉の渇きが酷い。ひび割れた唇を舐めても、血の味が滲むだけで何の潤いにもならなかった。 体温を保つためのエネルギーすら枯渇し、手足の指先は氷のように冷たくなっている。 完
翌日。 昨夜の得体の知れない熱と恐怖に当てられたのか、終始ぼんやりと魂が抜けたような状態のまま、流行遅れの地味な色のドレスを着せられ、ホテルの宴会場へと連れ出されていた。 有栖川家と獅子王グループの結びつきを祝う、華やかな婚約パーティー。 控室から促されるままに入場し、親同士が取り決めた婚約者である獅子王 理恩(ししおう りおん)の隣に立った、その直後だった。 パリンッ! シャンパングラスの乾いた破砕音が、静まり返った宴会場に響き渡った。 足元に散らばる鋭いガラス片よりも冷たいのは、こちらを見下ろす百人以上の招待客たちの、嘲笑と侮蔑を含んだ視線だ。「君との婚約は、今日この場をもって破棄させてもらう」 天井から降り注ぐシャンデリアの眩い光の下。オーダーメイドの黒いタキシードを完璧に着こなした理恩が、氷のように冷たい声で言い放った。細い指先には、中身を失ったクリスタルグラスの柄が力強く握られている。 ヒュッと、短く息が詰まった。肋骨を限界まで締め上げる時代遅れのドレスのコルセットのせいなのか、突然の言葉に脳が酸素の供給を止めたのか、声が出ない。「お姉様……ひどいわ……っ」 すぐ横で、甘ったるく人工的なローズの香水の匂いがふわりと舞い上がった。妹の麻里亜だ。 淡いピンク色の華やかなドレスの胸元を両手で押さえ、大きな瞳からポロポロと大粒の涙をこぼしている。「私、ただ理恩様にお祝いの言葉を伝えていただけなのに……どうして、あんなひどいことをするの……っ?」 震える声が、マイクを通したかのように静寂の会場によく響いた。「ひどいこと……?」 ようやく絞り出した声は、ひび割れて掠れていた。麻里亜に手出しなどしていない。ただ控室から出てきて、隣に立っただけだ。「とぼけるな、セリア」 理恩が麻里亜の華奢な肩を庇うように抱き寄せ、こちらを睨みつけた。整った顔立ちが、汚物でも見るかのように嫌悪で歪んでいる。「麻里亜から聞いたぞ。お前が昨夜、義母上の宝石を盗み出したそうじゃないか」「えっ……?」「さらに今日は控室で、麻里亜のドレスをハサミで切り裂こうとしたと。『私より目立つな』と罵りながらな。嫉妬で狂って妹を傷つけようとするとは、どこまで卑しいんだ」 目の前がチカチカと点滅した。宝石を盗む? ドレスを切り裂く? そんな危ないものを持ち歩くわけ
「痛っ……!?」 ミシミシと、骨が軋む鈍い音が耳の奥に響く。血流が一瞬で止められ、指先から血の気が引いていくのがわかった。(だめ、指が……っ、痛い……!) 恐怖で奥歯がカチカチと鳴る。 男の黄金色の瞳が、ゆっくりと細められる。 その視線は、助けてもらった恩人の顔を見るものではなかった。こちらの値踏みをするような冷たさと、ドロドロとした暗い怒りが、縦に割れた瞳孔の奥でチロチロと燃え上がっていた。「……有栖川の、淀んだ血の匂いがするな」 地鳴りのように低く、そしてひどく掠れた声だった。 男の太い指が、手首をさらにギリギリと締め上げる。手首の骨が悲鳴を上げ、思わず顔が苦痛に歪んだ。「お前たち一族が、俺をあの薄汚い場所に縛り付けた。人間の発する忌まわしい淀んだ空気の中で、肺が焼け焦げる痛みを味わわせてくれたな」 言葉の意味がまったく理解できない。有栖川家がこの男を縛り付けた?「あの、何の話ですか……私はただ、あなたが苦しそうだったから……っ、痛い、離して……」「黙れ」 短い一言が、氷のように冷たく空気を切り裂いた。 ぐいっと、手首を強烈な力で手前へと引っ張られた。「きゃあっ……!」 水溜まりの上で足が滑り、完全にバランスを崩す。そのまま、男の分厚い胸板へと真正面から激突した。 硬い。まるで分厚い岩盤に勢いよくぶつかったかのようだった。鼻先が潰れるほどの衝撃。痛みに顔をしかめる間もなく、男の丸太のように太い腕が、背中と腰にきつく巻き付いてきた。「あ……ちょっ、何するんですか! 離して……っ」 両手を男の胸に突き立て、必死に押し返そうと体重をかける。しかし、巨体はピクリとも揺るがない。 雨をたっぷり吸い込んだ高級なウール生地のザラつき。そこから放たれる火傷しそうなほどの高体温が、ずぶ濡れになって冷え切った衣服を通り越して、皮膚の奥深くまでジリジリと焦がすように伝わってくる。 男の美しい顔がガクンと下がり、首筋の真横に深々と鼻先が押し付けられた。 スゥーッ、と。 肌の表面から立ち上る匂いを、最後の一滴まで貪るように深く吸い込む生々しい音が響く。「……だが、皮肉なものだ」 首筋に当たる熱い吐息とともに、男の喉の奥で低い笑い声が鳴った。「俺を封じ込めた忌まわしい血族の女から、これほど純度の高い空気が湧き出しているとは」 男は大き
――冷たいはずの深夜の雨は、ひどく生温かかった。 足元のアスファルトを叩きつける水しぶきを浴びながら、両腕で胸に抱え込んだ分厚いバインダーをギュッと握り直す。(どうして、こんなことになっちゃったんだろう……) 一時間前の出来事が、まだ頭の中でうまく処理しきれていなかった。 自室の狭いベッドの上で、いつものようにピアノの楽譜を眺めていた時のことだ。 有栖川家という名門の体裁を保つためだけに、お嬢様学校へ通い、一流の講師からピアノを習わされている。屋敷に帰れば家族の肩を揉む雑用係として扱われる毎日の中で、白と黒の鍵盤に触れている時だけが唯一の息抜きだった。 将来はこっそり家を出て、どこか普通の町で、近所の子供たちにピアノを教える先生になりたい。そんなごくありふれた夢を思い描きながら、注意書きで真っ黒になった楽譜を大切になぞっていたのだ。 そこへ突然、父が乱暴にドアを開け放って怒鳴り込んできた。背後には、ハンカチを顔に当てて泣きじゃくる妹の麻里亜と、ひどく不機嫌そうな継母の姿があった。『お姉様、どうしてこんなことを……っ。お母様の大切な宝石、欲しいなら、私に言ってくれればよかったのに』 何の話かまったく分からなかった。麻里亜が震える指で示したベッドの下から、メイドが空っぽのジュエリーボックスを引っ張り出した時も、頭の中にはてなマークが浮かぶだけだった。「あ、あの、麻里亜。一緒に探そうか? きっとどこかで……」 心配になって声をかけようと立ち上がった瞬間、視界が横に吹っ飛んだ。 火の出るような痛みが頬に走り、床に倒れ込んだところで、自分が父に力一杯平手打ちされたのだと気づいた。口の中に鉄の味が広がる。『言い訳など聞きたくない。手癖の悪い役立たずめ。頭を冷やしてこい!』 二の腕を乱暴に掴み上げられ、そのまま引きずられるようにして廊下を進み、土砂降りの裏庭へと放り出された。 あまりの急展開に呆然としたまま、両腕にはベッドで読んでいた楽譜のバインダーを、まるで命綱のように抱え込んだままだった。大切な紙が濡れないよう、咄嗟に前傾姿勢になって背中で雨を弾く。(麻里亜、大丈夫かな。お母様の大切な宝石、早く見つかるといいけど……) 自分が理不尽に叩き出されたというのに、なぜか泣いていた麻里亜のことばかりが気にかかる。あんなに悲痛な顔をしていたのだから